連休の真っ只中、憲法記念日の5月3日。庭の若葉が日ごとに色を濃くし、朝の光を受けてしきりに揺れています。
そんな5月最初の日曜日、わたしと家内は早起きして山を下り、塩山の町へと向かいました。お目当ては「えんざん朝市」。先日、家内の個展に来てくださった方と骨董市やガレージセールの思い出話で盛り上がった際、「毎月第一日曜に開かれているから、ぜひ」と背中を押していただいたのです。
「青空」という屋根の下で
車を走らせながら、ふと、かつて暮らした世田谷の光景を思い起こしました。東京に暮らしていた頃、わたしたちは毎年のように「世田谷ぼろ市」に足を運んでいたからです。
思えば、なぜ人はこれほどまでに「市」というものに惹かれるのでしょう。
同じ品物を扱っていても、整然と商品の並ぶ実店舗と、広場や道路脇にテントを連ねた「青空市」とでは、心の持ちようがまるで違います。地べたに近い場所に置かれた品々には、どこか「不完全な美しさ」があって、しかもそれ一点しかないのです。それがわたしたちの警戒心をふっと解いてくれる。
店主との会話も、市の上空を流れる風のように軽やかです。
「ねえ、これ、どうやって使うの?」
「それはね……」
そんな、なんてことのないやり取り。「青空」という大きな屋根と非日常の祝祭空間が、わたしたちをふだんの肩書きや立場から解き放ち、ただの「ひとりの人間」へと戻してくれる。そこには、整備された消費空間では出会いにくい、剥き出しの、しかし温かな交流があります。
「住まう」ことの足跡
会場である「およっちょいぷらざ七里」周辺に着くと、その活気に目を見張りました。塩山に移り住んで以来、この界隈でこれほどの賑わいを目にしたのは初めてかもしれません。
市役所の駐車場はすでに満車。誘導員さんに案内されて臨時駐車場に車を停め、歩き出すと、街全体が深く呼吸しているような気配を感じます。

驚いたのは、その歴史の長さでした。「えんざん朝市」はすでに22年。道を挟んだ「甲州中央防災広場 塩むすび」で同時開催されている「かつぬま朝市」は、2003年から数えて23年目を迎えるといいます。
20年を超える歳月――。
ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーは講演「建てる、住む、考える」の中で、この大地の上に「住まう(Wohnen)」とは、単に場所を占有することではなく、その土地の事物を「守り、配慮すること」だと説きました。
朝市のスタッフの皆さんが、毎月欠かさず市を開き、人々が集う場を守り続けてきた22年。その地道な営みの積み重ねこそが、単なる「土地」を、人々が魂を寄せられる「住まい」へと変えてきたのでしょう。新参者のわたしは、ただただ頭が下がる思いです。
掘り出し物は、会話の端々に
朝市の醍醐味は、目的を持たずに彷徨うことにあります。
家内の興味は食器や手作りの衣類へ、わたしは古道具や植木、地元の特産品へと、自然と別行動になりました。




今回、目を引いたのは、地元で採れた「アカシアのはちみつ」、猟師の奥様が丹精込めて作ったという「革細工」という山梨ならではの品。定番の古道具や、手作り衣類などバラエティに富んだ品物が並べられています。そして意外なことに、フランス人の手作り「ハーブ・ソルト」まで……。話を聞いていると、なんだか、お店の方々の人生まで垣間見えてくるようです。
古ジーンズを並べたお店では、「次はわたしのサイズも仕入れておいてね」などと、柄にもなく店主の方と軽口を叩いてしまったりして、見知らぬ者同士なのに、不思議と会話が弾む。この気楽さが、朝市というものの本質なのかもしれません。
結局わたしが手に入れたのは、フランス風の「ハーブ入りコンソメ・ソルト」でした。肉料理はもちろん、魚介やパスタにも重宝しそうです。単調になりがちないつもの一皿に、ほんの少しの変化を添える。それだけで、わたしの畑の野菜たちも少しだけ晴れがましい顔をするような気がします。
朝の光は世界とひとつ
朝市といえば、グアムのデデド、台北の双連、あるいはパリのマルシェ……。世界のどこかで今この瞬間も、新鮮な食材や雑貨を介して、人々の生きた交流が行われているはずです。
塩山のこの朝市も、それらと地続きの空の下にある、とわたしは思います。
地元の人々が20年以上かけて育ててきたこの温かな文化が、これからも四半世紀、半世紀と続いていくことを願ってやみません。次の第一日曜日が、今からもう楽しみです。