4月に入り、春の風がもはや疑いようもなく、わが家の庭に届くようになりました。
朝、ウッドデッキに座って深呼吸をすると、湿り気を帯びた空気と土の匂いが鼻をくすぐります。前庭に目をやると、昨年12月に植えたチューリップたちが、力強く、どこか誇らしげに土を割り、その花芽を天へと向けています。
以前、このブログで「たんぽぽが好きだ」と綴りましたが、正直に言うと、チューリップも同じくらい、あるいはそれ以上にわたしの心を捉えて離さない花なのです。
母の歌声と、空白の記憶
チューリップの花を眺めていると、きまって心の中に流れてくる調べがあります。
「さいた さいた チューリップのはなが……」
おそらく誰もが、心の中で歌い出すのではないでしょうか。あの有名な唱歌です。物心つく前の、まだ世界が柔らかい光に満ちていた頃。わたしの隣で、絵本を広げた母が優しく歌ってくれた記憶が、セピア色の情景として蘇ります。
しかし、不思議なことに、当時のわたしが「実物の」チューリップを見たという記憶は、どこにも見当たらないのです。わたしが自ら球根を求め、プランターや花壇に植えるようになったのは、実は40歳を過ぎてからのこと。幼い日のわたしは、花そのものではなく、母の歌声を通した「チューリップという概念」を愛していたのかもしれません。
ところで、この「チューリップ」の歌、作詞は近藤宮子氏、作曲は井上武士氏で、初出は1932年(昭和7年)なのだそうです。実はわたしは、1番しか知らなかったのですが、1963年に作曲者の井上武士氏によって2番と3番が書き加えられたということです。
チューリップ(唱歌)
1 さいた さいた チューリップのはなが
ならんだ ならんだ あかしろきいろ
どのはなみても きれいだな
2 ゆれる ゆれる チューリップのはなが
かぜに ゆれて にこにこわらう
どのはなみても かわいいな
3 かぜに ゆれる チューリップのはなに
とぶよ とぶよ ちょうちょがとぶよ
ちょうちょとはなと あそんでる
「にこにこわらう」という表現に、思わず口元が緩みます。この歌は「唱歌」と呼ばれますが、同じ子供の歌である「童謡」とは少し出自が異なります。明治期に教育を目的として作られた「学校の歌」が唱歌であり、大正期に子どもの芸術的感性を育むために生まれたのが童謡なのだそうです。そう聞くと、唱歌であるこの曲の、整列させるような「ならんだ ならんだ」という歌詞に、どこか学校的な規律を感じなくもありません。
それでも、やはりわたしは1番の歌詞が最も好きです。赤、白、黄色。そこには一切の序列がなく、ただ純粋な肯定があるだけだからです。




狂乱のバブル、欲望の球根
しかし、この清らかな花は、歴史の中で一度、人間の醜い欲望の渦に飲み込まれたことがあります。皆さんも耳にされたことがあるでしょう。「チューリップ・バブル」という名の狂乱を。
17世紀のオランダ。当時、ウイルス感染による突然変異で現れた珍しい縞模様のチューリップは、富と名声の象徴となりました。人々は理性を失い、たった一つの球根に家一軒分、あるいはそれ以上の価格をつけたといいます。
1637年2月、その泡は突然弾けました。昨日まで財宝だった球根は、ただの「玉ねぎのような根っこ」へと姿を変え、多くの人々を破滅へと追いやったのです。西洋哲学の文脈でいえば、これはまさに「ヴァニタス(人生の虚しさ)」の象徴です。人間がいかに確固たる価値を信じていても、それは移ろいやすい市場という幻想の上で描かれた夢に過ぎない……。
面白いのは、この球根そのものを指す「バブル(Bubble/鱗茎)」が、現代では「実体のない泡(Bubble)」を意味する経済用語の語源となったという説もあるのです。本当かどうかわかりませんが、球根という意味の言葉が、やがて虚ろな泡をも意味するようになったというのは偶然にしては出来過ぎですね。
庭の土をいじりながら思うのです。かつて人を狂わせたあの縞模様は、実は植物の病によるものだった。不完全なものを「美」と見なし、そこに法外な価値を見出した人間の業。同じことは、今も形を変えて繰り返されているのかもしれません。
どのはなみても、きれいだな
現在、世界には6,500種類以上ものチューリップの品種があるといいます。一重、八重、ユリ咲き。色は黒や緑にまで及び、その多様性は目を見張るほどです。
400年前、投機の対象として翻弄されたチューリップたち。しかし、その背後には、ただ純粋に「もっと美しい花を見たい」と願い、品種改良に心血を注いだ人々の情熱もあったはずです。そうでなければ、これほどまでに豊かな色彩が現代に残るはずがありません。
わたしの庭に咲くのは、名もなき、ごく普通の品種です。
バブル経済のような「泡」の狂熱とは無縁の、土の中で静かに冬を越した「球根(バブル)」としての命。雑念を払い落とした眼(まなこ)でそれを見つめる時、その花々には高価な価値も、歴史の教訓もありません。
ただ、春の光を浴びて「そこに在る」という事実。
「どのはなみても きれいだな」
結局、この単純な言葉に勝る真理はないのではないでしょうか。知性は時に物事を複雑にし、人々を誘惑しますが、自然は常にシンプルです。どんなに高貴な品種も、道端のたんぽぽも、等しく天の恵みを受けて花を開く。その平等という地平こそ、わたしが庭仕事と坐禅から学ぼうとしていることでもあるのです。
さて、明日の朝は、どの花が一番に「にこにこ」笑ってくれるのでしょうか。
参考文献
- 【インターネット】Wikipedia「チューリップ (唱歌)」, (2026年4月2日参照).
- 【インターネットネット】Wikipedia「チューリップ・バブル」, (2026年4月2日参照).