春ジャガの種芋

春ジャガの植えつけ

山里の静寂の中に身を置いていると、時計の針が刻む数字よりも、窓の外に広がる光の色や、肌をなでる風の温度で時を知るようになります。

昨日は、いつもよりも少し遅い、朝6時の起床となりました。ふだんならば、冷え切った畳の上で40分ほど坐禅を組み、呼吸を整えるところから一日が始まりますが、昨日はその時間を惜しんでキッチンへと向かいました。少しばかりの「寝坊」も、春のまどろみが誘ったものと思えば、それもまた自然の理(ことわり)かもしれません。

春の冷気と、目覚めの儀式

まだひんやりとした空気の残る台所で、まずはシュンシュンとお湯を沸かします。お気に入りのコーヒー豆を使い、ペーパードリップで丁寧にコーヒーを淹れる時間は、わたしにとっての「動の瞑想」です。

朝のチューリップ
朝のチューリップ

勝手口のガラス越しに目をやると、隣家のスモモが満開を迎えていました。透き通るような白い花弁が、朝の光を浴びて淡く発光しているようです。一方で、玄関脇の軒下に吊るした温度計は、きっかり 0℃を指していました。昨日花開いたばかりの黄色いチューリップは、寒さに耐えるように、あるいはまだ夢の続きを見ているかのように、花びらを固く閉じてじっとしています。

「お前もまだ、眠たいのだね」

そう心の中で語りかけ、リビングに戻り、熱いコーヒーをいただきました。

「森の縁側」としての畑

わたしの暮らす山梨県塩山エリアは、標高にして400mから600mほどに位置します。この地では、遅霜の心配が薄れる3月中旬から4月上旬にかけてが、春のジャガイモを植え付ける最良の季節です。

9時を回る頃、作業着に着替えてキッチンの裏にある畑へ向かいました。目的は、二畝(ふたうね)分のジャガイモの植え付けです。このキッチン裏の畑は、一畝が幅1メートル、長さ3メートルほど。今回はここに、「キタアカリ」という品種のジャガイモを植えていきます。この品種は、昨年も栽培したのですが、黄色味が強く、甘くホクホクとした食感で、家内にも好評だった品種なのです。

植え付けの前に、まずは冬の間に勢いを増した雑草を整理しなければなりません。自然農を志す方の中には「草を一切刈らない」という人もいますが、わたしは畝と通路の境界が曖昧になり、わからなくなるのを好まないため、ある程度の手入れを施します。

不耕起・無肥料を原則とするわたしのスタイルは、土を無理に動かさず、自然のタイミングに寄り添うことを旨としています。しかし、種まきや植え付けの前だけは、雑草を刈り、土の顔を覗かせます。

草を刈りながら手元を見ると、昨年の秋冬に収穫し忘れたジャガイモが、自らの力で芽を吹かせていました。誰に教わったわけでもなく、暗い土の中で春を待ち侘びていたその生命力に、畏敬の念を禁じ得ません。この子たちは、そのままそっと、今回の種芋の仲間に加えることにしました。

土に預ける「修行」の感覚

禅宗の寺院では様々な作業を作務(さむ)といい、修行の一種としています。わたしの畑仕事もそれと同じで、種芋を植える手作業も「修行」に近いものがあるのです。

畝の上に30センチほどの間隔で3列の目印をつけ、およそ20センチ間隔で穴を掘っていきます。移植シャベルで15センチほどの深さまで掘り、そこへ静かに、丁寧に種芋を置いていきます。

通常の栽培であれば、土寄せ(成長に合わせて土を盛り上げること)を前提に浅く植えるのが一般的ですが、不耕起を基本とするわたしの畑では、なるべく深く植え付ける手法を取ります。そうすることで、後の手間を省くと同時に、土の深い部分に備わっている安定した湿り気と温度をジャガイモに託すのです。

指先から伝わる土の冷たさと、微かな湿り気。それは、人が自然をコントロールしようとする傲慢さを手放し、太陽の周りを循環する地球の大きな営みの中に自分を預けていく感覚です。

わたしは、この畑を単なる作物生産の場とは思っていません。ここは、わたしという存在を整え直すための場所であり、自然の営みのすぐ傍らに人が腰を下ろす「森の縁側」のような場所でありたいと願っているのです。

「なぜ芽が出たのか」「なぜ枯れたのか」。合理的な答えを急いで求めるのではなく、ただよく観察し、作物にとって必要なだけの手助けをし、静かに待つ。それは、生に対する深い信頼の問いかけであり、言葉にならない深い気づきをわたしに与えてくれます。

作業の合間、上空で「ピーヒョロロ~」という鳴き声が聞こえてきました。見上げると、トンビが悠然と輪を描いています。この辺りのトンビは時に、驚くほど低空まで降りてくることがあり、その羽ばたきの音さえ聞こえてきそうな距離感に驚かされ、自分もまたこの生態系の一部であることを再確認させられるのです。

澄んだ味、満ち足りた午後

正午前、予定していた春ジャガイモの植え付けを無事に終えることができました。

お昼のチューリップ
    お昼のチューリップ

道具を片付け、上の畑で立派に育った日本ほうれん草をひと掴み収穫して家に戻ります。ふと庭先を見ると、朝はあんなに固く閉じていたチューリップが、今度は驚くほど大らかに、少し開きすぎなほどに花を広げていました。

「お前も、ずいぶんとお寝坊さんだったのだね」

今朝の自分を鏡で見ているような心地になり、思わず苦笑いがこぼれます。

作業でかいた心地よい汗を流し、着替えた後の爽快感は何物にも代えられません。昼食は、先ほど収穫したばかりのほうれん草をたっぷりと使ったスパゲッティーにしました。

肥料を一切与えない「クリアな土壌」で育った野菜には、特有のエグみがありません。そこにあるのは、素材そのものが持つ澄み渡った味です。この「透明な美味しさ」を噛みしめる瞬間こそ、世間からは自己満足に見えるかもしれませんが、自給自足的な暮らしの真髄であり、最大の醍醐味なのです。

食後、少しだけ開けた窓から春の風が入り込んできます。午前中の畑仕事の適度な疲労感と、満腹感。うとうとと心地よい眠気が、意識の境界を溶かしていきます。

静かに流れる毎日の中で、今この瞬間の命の巡りに静かに手を合わせたくなる。今日植えた二畝のジャガイモが、土の力でどのように育っていくのか。楽しみにしながら、わたしはただ、その過程を静かに見守り、寄り添っていくのです。

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