わたしの暮らす里山では、季節のわずかな変化を、体のほうが先に知ることがあります。このところ寒々とした日が続いていたのですが、昨日の朝は少しだけ寒気がほどけたような空気でした。冷たい風の奥に、かすかな春の匂いが混じっている——そんな朝です。
午前9時を過ぎるころになると、空はすっかり晴れ渡り、甲府盆地の向こうに見える南アルプスの雪の稜線が、くっきりと浮かび上がってきます。こういう日に室内に籠もっているのは、どうにも惜しい気がします。
どこかへ出かけてみようか――。
そんな気分になりました。長らく待ち侘びていたジムニーノマドが、ちょうど先日納車されたばかりです。試し乗りの、ささやかなドライブも悪くありません。

下のほうの盆地では、すでに梅の花が咲き始めているのを見かけていましたから、梅の名所へ行くのも良いかもしれません。けれど、ふと先週買い物へ出かけたときに、道路脇で見かけた立て看板のことを思い出したのです。
「ザゼンソウ」
あまり聞き慣れない花の名前。気になって調べてみると、「玉宮ザゼンソウ公園」という場所があり、わが家からそれほど遠くないことがわかりました。
それでは、そこへ行ってみよう。
家を出て北へ向かうと、道はすぐに果樹畑の中へ入っていきます。桃やぶどうの畑の間を、のんびりと走る道。やがて両脇に古い農家の家屋が並び、見通しの悪い細い山道へと変わります。ゆっくり登っていくと、わずか15分ほどで「玉宮ザゼンソウ公園」に到着しました。
この公園には番地がないため、カーナビに入力できないという案内をインターネットで見かけました。ところがグーグルマップで検索した住所を入力すると、特に迷うことなく到着することができました。近づくにつれて周囲の畑は次第に荒れ、背の高い雑草に覆われた山地が広がります。本当にこんなところなのだろうか――と、だんだん心細くなってきたのも正直なところ……。
公園には普通車が20台ほど停められる駐車場があります。わたしが到着したときには10台ほどの車が停まっていましたが、人影はまったく見当たりません。駐車場のそばにはハイキングマップがあり、この一帯が「小倉山」と呼ばれる山地で、いくつもの散策コースが整備されていることがわかりました。どうやら、車の主たちは山へ登っていったようです。
ところで少し紛らわしいのですが、「玉宮ザゼンソウ公園」そのものにはザゼンソウは生えていません。花を見るには、ハイキングコースを少し歩き、「ザゼンソウ群生地」まで行く必要があるのです。
ハイキングマップに従って杉林の登山道へ入ると、空気が急にひんやりしてきます。私は花粉症ではないので平気ですが、この季節は杉花粉に悩まされる方には少々つらい道かもしれません。
駐車場から竹森川を渡り、歩くこと5分ほど。すぐに「ザゼンソウ群生地」に着きました。そこには「塩山市指定文化財 天然記念物 竹森のザゼンソウ群 甲州市教育委員会」と書かれた木の看板が立っています。
ここでわたしの頭は少し混乱します。「玉宮」「小倉山」「竹森」と、いくつもの地名が登場するからです。調べてみると、標高954メートルの「小倉山」の麓、かつての「玉宮」村にあった「竹森」集落の湿地にザゼンソウが群生しており、その入口に整備されたのが「玉宮ザゼンソウ公園」、という関係のようでした。甲州市に統合される以前の古い地名がそのまま残っているのです。





群生地には木道が整備されています。ただし湿地へ降りることはできません。さらに野生動物からザゼンソウを守るため、周囲には電気柵が巡らされています。木道へ立ち入る際には、自分で柵を外して中へ入り、また自分で閉める仕組みです。こういう方式は初めてで、少し驚きました。
薄暗い湿地帯に伸びる木道の奥をのぞくと、最初は枯れ葉の色に紛れて見分けがつきません。しかし目が慣れてくると、赤紫色の不思議な姿の植物が点々と顔を出しているのに気づきます。

これがザゼンソウです。
赤紫色の殻のような部分は「仏炎苞(ぶつえんほう)」と呼ばれ、その中に小さな花が密集しています。その姿が、僧侶が静かに坐禅を組んでいる姿に見えることから、この名がついたそうです。どこか神秘的な雰囲気があり、小さな修行僧が湿地の奥にひっそりと並んでいるようでした。
さらに面白いのは、この花が自ら熱を生み出すことです。開花の時期、花の内部は外気が氷点下でも20度前後に保たれます。根に蓄えたデンプンを燃焼させ、その熱で周囲の雪を溶かしながら顔を出すというのです。
まだ冬の名残が残る湿地で、ひとつの命が静かに発熱している――。
自然の仕組みとは、実に不思議なものです。
群生地に立っていると、空気がぐっと冷えてくるのがわかります。ここは標高およそ780メートル。わが家の標高は540メートルほどですから、240メートルの標高差で体感はずいぶん違うことがわかります。足元を見ると、まだ霜柱がところどころに残っていました。
山の早春は、まだ冬の領分なのだと実感します。
ザゼンソウが見られるのは、だいたい2月下旬から3月中旬ごろ。雪解けの頃にだけ姿を現す、短い季節の花です。
ここ「竹森のザゼンソウ群生地」は、ザゼンソウが自生する南限地域に近い場所で、たいへん貴重な環境だそうです。木道は整備されていますが、湿地の空気は冷たく、途中の道もゴロゴロとした石が多く滑りやすいことがあります。歩きやすい靴と、少し暖かい服装で訪れるのが安心でしょう。
霜柱の残る湿地の中で、静かに坐禅を組むように咲くザゼンソウ。
その姿を見ていると、春とは派手にやってくるものではなく、こうして静かに地面の下から立ち上がってくるものなのかもしれない――そんな気がしてきました。
山歩きの途中で、この小さな修行僧に出会えたなら、きっと、しばらく忘れられない景色になるでしょう。