東京から山梨県甲州市塩山の山中に移住して大きく変わったことのひとつに、朝のコーヒー習慣があります。
わたしはもともとコーヒー好きで、高校生の頃から時々ドリップコーヒーを飲んでいましたが、モーニングコーヒーを飲む習慣はありませんでした。朝、コーヒーを飲むことが習慣になったのは、東京でサラリーマン暮らしをし始めてからだと思います。けれどもサラリーマン時代の朝は忙しく、ドリップコーヒーを淹れる時間などなく、いつの間にかインスタントコーヒーになっていたのでした。
東京で暮らしていた頃と田舎暮らしを始めてからでは、一日の時間の流れが全く異なります。東京では、あらゆる出来事に時間設定がありました。朝は職場に行くために何時に起き、始業時間に間に合うためには何時のバス・電車に乗らなければならない。仕事では、何時のミーティングまでにメールチェックを終わらせ、会議の開催案内をいつまでに出し、会議資料はいつまでに作成し、納品期限は守らなければならない等々。すべてが時間や日付に縛られ、大きなストレスとなっていました。
それがこちらの田舎暮らしでは、時間に縛られるということがほとんどありません。朝昼晩と大雑把な時間の流れの中でゆっくりと日常が過ぎていきます。朝は窓の外が明るくなり鳥の鳴き声が聞こえてくるので、目覚まし時計が鳴る前に自然と目覚めてしまいます。外に出かける必要はなく、家庭菜園や庭の手入れ、その他の趣味を自分の敷地内で行うばかりなので、日中も特に時間を気にすることはありません。お昼と夕方には、市内各所にある防災行政無線の屋外スピーカーから定時放送チャイムの短い音楽が流れてくるので、時計を持っていなくても正午と夕方6時の時刻がわかります。時間に追われることなく、誰かに急かされる訳でもないので、ひとつひとつの事柄にゆったりと向き合い、今ここ、この場に集中して取り組むことができているようです。
ドリップコーヒーを淹れるようになった直接のきっかけは、引っ越し荷物の中から陶器製の珈琲ドリッパーを二つ、ペーパーフィルター一袋、封を切っていないレギュラーコーヒーやドリップパックのいただき物を見つけたことです。忙しいサラリーマン時代に食器棚の奥にしまい忘れていたものです。それを見つけた時、わたし自身が忘れていた「珈琲好き」という過去のわたしの思いが甦ってきたのでした。そういう訳で、いつしかわたし自身でお湯を沸かし、コーヒーを淹れることが、当たり前で自然な朝の儀式になったのです。
そもそも、粉の状態のレギュラーコーヒーから液体のコーヒーを抽出する方法には、「透過式(とうかしき)」と「浸漬式(しんししき)」があります。「透過式」はコーヒー粉にお湯を通過させて成分を抽出する方法で、ペーパードリップやエスプレッソなど、ある程度のテクニックによってコーヒーに個性をつけやすいのが特徴です。成分の抽出速度が速く、お湯を注ぎ続ける限り成分が抽出され続けます。「浸漬式」はコーヒー粉をお湯に浸して成分を抽出する方法で、フレンチプレスやサイフォンなどの抽出器具を使います。コーヒー粉の量・水温・時間を一定にすることで、同じ味わいを再現しやすいのが特徴です。透過式と比べて成分の抽出速度は遅く、成分が飽和した時点で抽出が止まります。
最近では、家庭用でも全自動のコーヒーマシンやコーヒーメーカーが普及していますが、家庭でコーヒーを淹れるなら、安く簡単に器具を入手できるペーパーフィルターによるハンドドリップが一番手軽です。同じハンドドリップでも、ステンレスフィルターやネルフィルターは入手が面倒で、使用後のお手入れも必要です。私もペーパーフィルターを使ったハンドドリップでコーヒーを淹れています。白いフィルターは漂白剤で漂白されており健康被害が気になるので、いつも使用するのは茶色の漂白されていないものを選んでいます。

最近、毎日飲んでいるレギュラーコーヒーのブランドは、「京都 西京極 小川珈琲店」の小川プレミアムブレンドと「軽井沢 丸山珈琲」のスペシャルティ モカブレンドです。こうしたブランドもこちらのスーパーマーケットで普通に販売されていることに驚きました。東京で暮らしていた時に利用していたスーパーでは、単に私が気付かなかっただけかもしれませんが、UCC上島珈琲株式会社やキーコーヒー株式会社といった大手の製品しか置いていなかった印象があります。
コーヒーカップは、味の素AGFのBlendyブランドのインスタントコーヒー瓶にノベルティとしてついてきたマグカップを何十年も前から使っています。有名陶器ブランドのコーヒーカップも使っていたことがありますが、大抵の場合、洗っているうちに誤って割ってしまうのです。しかし、このマグカップは一向に割れる気配がありません。不思議なものです。ネットでは、昭和レトロな景品として取引されていることもあり、それもまた不思議な感じがします。カップには可愛いイラストとともに、次のように英文で書かれています。

Coffee always tastes better when someone who likes you a lot makes it for you.
あなたを大好きな人が淹れてくれるコーヒーは、いつもよりおいしく感じます。
毎朝、洗顔の後、陶器でできたドリッパーにペーパーフィルターをセットし、お気に入りのレギュラーコーヒーを入れます。注ぎ口の細いポットで沸かしたお湯をコーヒー粉に注ぎ、20秒ほど蒸らした後、のの字を書くように注意深くお湯を注ぎます。人数分のコーヒーは3分程度で抽出します。ドリッパーから湯気が立ち上ると、キッチン全体にコーヒーの香ばしい匂いが立ち込めます。

淹れたてのコーヒーの透明感と深みのある色は私の目を楽しませてくれます。香りは鼻をくすぐります。口に含むと爽やかな苦味と酸味が心地よく舌を刺激します。ゆっくり時間をかけて飲み込むと、静かな満足感が食道と胃を通り抜けて全身に広がります。要するに全身でコーヒーを味わうのです。
キッチンでコーヒーを味わいながら、窓の外に目をやると、わたしのログハウスがあり、背後には大菩薩嶺が控えています。あるいはリビングでコーヒーを飲みながら、甲府盆地を一望し、その向こうに南アルプスが聳えているのを眺めます。
こうした美しい風景を楽しみながら、ゆったりとしたくつろぎの時間を持てる今、わたしはとても幸せです。今ほど、自分の人生を生きているという充足した感覚を持ったことはありません。毎朝のコーヒータイムという幸福な時間を過ごせることに感謝しつつ、こうした平和な時間を世界中の人々が得られるように祈らざるを得ません。