東京に住んでいた頃、道端でよく見かけながら、名前も知らないでいた花が、山梨のわが家の敷地にも咲き始めました。オレンジともピンクともつかない、どこか異国の陽光を閉じ込めたような透き通った色彩の花が、ゆらゆらと風に揺れています。
「あなたは何もの?」
しゃがみ込んで問いかけても、花はただ黙って風に身を任せるばかりです。昔なら、図鑑を片手に数日を費やしたかもしれません。けれど、今は便利な時代ですね。スマートフォンをかざせば、たちどころに名前が分かります。
名は、ナガミヒナゲシ。

1961年に東京で初めて見つかり、90年代から急速にその領土を広げた外来種だといいます。乾燥に強く、アスファルトの隙間からも顔を出す逞しさ。しかしその可憐な姿の裏側には、他の植物の成長を阻害する化学物質(アレロパシー)を分泌し、傷つければアルカロイドの毒を出すという、なかなか手ごわい性質が隠されていました。
多くの自治体が、生態系への影響を懸念して注意を呼びかけています。名前を知り、性質を理解し、分類の棚に収める。そうした途端、さっきまでの「名もなき美しい花」は、「駆除すべき侵入者」というラベルに貼り替えられてしまう。植物であれば、それで話は終わるのかもしれません。けれど、わたしたち人間の場合はどうでしょうか。
「わたしとは何か」、「わたし」はどう生きるべきか。「汝自身を知れ(Gnothi seauton)」とは、古代ギリシャのアポロン神殿の柱に刻まれていた言葉。哲学者たちを幾世紀も悩ませてきた古ぼけた問い、けれど切実な問いが、不意に胸を突きました。きっかけは、4月14日の朝に放送された連続テレビ小説『風薫る』のワンシーンです。
見上愛さん演じる「りん」が店番をしていると、流暢なフランス語を操る青年、島田健次郎が現れます。りんが「学校の先生ですか」と彼の「役割」を問うたとき、健次郎は少し寂しげに、けれど強くこう返しました。
「……どうしてそんなに何ものかにしたがるのですか」
何かしらの仕事や役割がなければ人は生きていけない、そう食い下がるりんに、彼は「役割がなくても生きていける社会が好きだ」と言い切ります。「変わりものですね」と応じるりん。
画面の中の彼を見ていて、わたしは思わず「ふふふ」と独りごちてしまいました。数十年前、これと似たような、少し苦くて、けれど青い記憶がわたしにもあるからです。のちに家内となる女性と出会った後、わたしは大学に入学しました。
「何学部なの?」と聞かれ、少し得意げに「文学部哲学科だよ」と答えたわたし。彼女は少し不安そうな顔をして、重ねてきました。
「将来は何になりたいの?」
今思えば、彼女の問いは、社会という荒波に漕ぎ出すための「確かな船」を求めていたのでしょう。けれど、当時のわたしはこう答えました。
「将来何になるかなんてわからない。社会的に認められた『何か』になることも、きっとないだろう」
その日のビールは、ひどく苦かった。朝ドラの健次郎さんのように格好良くはいきません。
わたしが哲学科の門を叩いたのは、哲学史を暗記したかったわけではありません。「わたしとは何か」、「どのように生きてゆけばよいのか」を、切実に学びたかった。けれど大学で教えられたのは、かつての偉大な賢者たちが残した思考の「抜け殻」(哲学史)——生きた問いではなく、解答済みの問いの博物館でした。
インテグラル・アプローチの哲学(統合哲学)を展開したことで知られるケン・ウィルバーは、こんなことを書いています。
「『わたしとはいったい誰なのか』。この疑問は、文明が始まって以来、人間を一番困らせてきた。今日でも、あらゆる人間の疑問のなかで、もっとも悩ませるものとなっている。この疑問に対する答えもまた、聖なるものから俗なものまで、複雑なものから簡単なものまで、科学的なものからロマンティックなものまで、集団的なものから個人的なものまで、広範囲にわたっている。」1
「『あなたは誰ですか』という問いは、実は、『どこにあなたは境界線を引くのですか』という問いなのである。」2
わたしたちは、自分と他者、自分と世界の間に境界線を引き、「ここまではわたし、ここからはわたしではない」と定義することで安心を得ようとします。
職業、勤め先、役職、家庭での役割……。
それらの「ラベル」は、まるでナガミヒナゲシに付けられた名前のように、わたしたちを一見分かりやすくしてくれます。けれど、それらの役割は、本当に「わたし自身」なのでしょうか。
わたしには体がある。しかし、体は滅びゆく器であり、わたしそのものではない。わたしには感覚や感情がある。けれど、それらは雲のように現れては消えていく現象に過ぎない。わたしには思考がある。けれど、思考を客観的に眺めている「視点」がある以上、思考そのものがわたしであるはずもない。
境界線を引けば引くほど、本当の自分は霧の向こうへ消えていくようです。
禅の世界には、「絶学無為の閑道人」という言葉があります。
君見ずや
絶学無為の閑道人
妄想を除かず真を求めず
無明の実性即仏性
幻化の空身即法身
(永嘉玄覚『証道歌』)
学ぶべきものを学び尽くし、もはや知識に頼る必要もなく、悟りさえも求めない。何者かになろうとする焦りを手放し、ただ「今、ここ」、任運自在に、淡々と生きる人。そんな境地に辿り着きたいと、毎朝の坐禅で背を伸ばしてみるものの、わたしの修行はまだまだ足りません。
わが家の敷地に生えたナガミヒナゲシを見て、「可愛いけれど、毒があるのか」と分類したがる心。「何ものでもない自分」でありたいと言いながら、いつか誰かに認められたいと願うエゴ。
けれど、それで良いのだとも思うのです。定年退職して山梨の里山に移り住み、土に触れ、季節の移ろいに耳を澄ます「このもの」。社会の物差しからは少し外れた「変わりもの」として、オレンジ色のナガミヒナゲシの花のように春の風に吹かれている。
「あなたは何もの?」
そう問いかけてくる誰かに、「ただの変わりものです」と微笑んで答えられたなら——それが、絶学無為の端っこに触れる瞬間なのかもしれません。
脚注
- P.19.『存在することのシンプルな感覚』ケン・ウィルバー(著)、松永太郎(訳)、春秋社、2005年. ↩︎
- P.20. 『存在することのシンプルな感覚』ケン・ウィルバー(著)、松永太郎(訳)、春秋社、2005年.
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