託すこと、手放すこと――「上の畑」に苗を植えて
4月の新年度に入り、桜の花も見頃の時期を過ぎると、周囲の桃農家さんたちもにわかに活気づいています。朝早くから、スピードスプレーヤーと呼ばれる噴霧車両で、花盛りの桃やスモモの樹に消毒液を噴霧する作業を行ったり、鳥の羽のようなはたきを使って受粉作業をしたり、あるいは摘花といって余分な花を間引く作業を行ったり……。親しくさせていただいている農家さんたちは皆、わたしよりも年上なのに、それはもう、毎日よく働きます。
今朝の甲府盆地は、薄雲の合間から柔らかな陽光が差し込み、里山の緑がいっそう色濃く感じられました。わたしも負けてはいられません。わたしの「上の畑」は、少しずつ地温も上がり始め、初夏への準備を急かされているようです。
今日は、先日手に入れてきた夏野菜の苗たちを、空けておいた畝へと植え付けました。
こだわりを手放す
3月上旬は、夏野菜の種を蒔き、育苗を始める時期。昨年までは、黒ポットに種を蒔いて芽吹きの瞬間から育苗まで見守っていました。土を持ち上げ、ためらうように双葉を広げる小さな芽——その一瞬一瞬に付き添うことが、種から育てる醍醐味でした。自分で種から育てた苗を植えて、野菜を収穫したいというこだわり。しかし今年は、家内の仕事を手伝ったおかげで、少しばかり時期を逸してしまったのです。
「まあ、そんな年もあるさ」
以前のわたしなら、種まきの時期を逃した自分を責め、無理にでも今から種を蒔こうと躍起になっていたでしょう。しかし今は、自分の中にあった「こうあるべき」「こうしなければ」という小さな執着が、少しずつ剥がれ落ちていくのを感じるようになりました。なんでもかんでも自分でコントロールしようとせず、今できることをやればよいのです。
今年は、プロの業者さんの手によって育てられた苗を迎え入れよう。そう決めて、先日、ホームセンターで夏野菜の苗を購入してきたのでした。
家内との調和、土との対話
ホームセンターに並んだ苗を眺めるのは、思いのほか愉しい時間でした。サントリーとかカゴメとか、有名企業の苗もあります。
トマトは、有名な育苗メーカーの味の濃い大玉、中玉の高リコピン、そして甘いミニトマトをひとつずつ選びました。大玉トマトは今年、初挑戦です。
「去年は冷凍庫がミニトマトでいっぱいになって、大変だったんだから」
そんな家内の苦笑混じりの言葉を思い出し、今年は3苗に留めました。たくさん作ることが豊かさではなく、分相応に、家族が微笑んで食べ切れる量を知ること。それもまた、ひとつの「中道」——苦行でも放逸でもなく、過不足のない道——なのかもしれません。
ナスは長茄子と丸茄子、キュウリは異なる品種を4苗。さらに栗のように甘いというカボチャ「栗みやこ」と、中型のピーマン「京みどり」。






さて、植え付けの前にはひと仕事。昨晩から育苗トレイに水を張って、苗のポットごとつけておき、たっぷりと水を吸わせておきました。畝の表面を覆っていた草を刈り、土を軽くほどいて苗を据えます。ひと株ごとに「よろしく頼むよ」と心の中で声をかけながら、株元に米糠と油粕をそっと撒きました。これは、土の中の微生物たちへの、ささやかなお布施のようなものです。前夜から水を吸わせてあるので、植え付け後の水やりは不要です。数日後には雨の予報もあるので、十分に根を伸ばし活着してくれることでしょう。
ナスの苗には、支柱を立てて苗を誘引し、最後にビニール行灯(あんどん)を施しました。ナスの若い苗は、驚くほど風に弱いのです。4月、5月の里山を吹き抜ける風は、時に鋭く、まだ根の浅い苗を翻弄します。考えてみれば、こうしたことも、こちらに来て自分の畑を営んでみて、初めて知ったことなのです。
明日への歩み
ふと見渡せば、圃場全体の草が勢いを増しています。近いうちに、朝から草刈り機を回さなくてはなりません……。

草を刈り込んで畝にマルチングしたり、わき芽を取ったり、野菜たちが育つのを手助けする毎日の見回りが明日から始まります。今年の作柄はどうなるのか。それは誰にも分かりません。ただわたしは、与えられた条件下で、今できる最善を尽くし、あとは天に任せるだけです。
西洋哲学ではニーチェが「アモール・ファティ(amor fati)」——運命を単に受け入れるのではなく、積極的に愛し、望むこと——を説きました。畑に立っていると、その意味が理屈ではなく肌感覚で分かるような気がします。仏教の「ありのままを受け入れること」とは出発点が異なりますが、土の上に立てば、どちらの言葉も同じ一枚の空の下にあるように感じられます。収穫の多寡に関わらず、この土の上で起きるすべての出来事を、慈しみの心で迎えていきたい。
甲府盆地に夕闇が迫る頃、泥を落とした手で温かい白湯を一口啜りながら、そんなことを思いました。さて、明日もまた、日の出とともに土と向き合うことにいたしましょう。