桃の畑とたんぽぽ

たんぽぽと詩と

たんぽぽが好きだ。
たんぽぽは、朝、太陽の光を浴びて、花開く。
たんぽぽが咲くと周りが明るくなる。黄色い、強い光を放っている。
たんぽぽは強い。踏まれても平気だ。
たんぽぽを見ると、こちらが弱っていても、不思議と元気になる。
下の桃畑にたんぽぽが咲いている。たくさん咲いている。
桃色の花と黄色の花。白いナズナと競っている。
たんぽぽは、夜になると、花を閉じて眠りにつく。
明日の朝まで、おやすみなさい。

今日は、たんぽぽについて書こうとしたら、なぜだか「まど・みちお」さんの詩のような文章になってしまいました。

たんぽぽについて、知っていることはいくつかあります。たとえば、日本で見られるたんぽぽには七種類ほどの品種があること、セイヨウタンポポは外来種で、2015年まで「要注意外来生物」に指定されていたこと、外来種と在来種を見分けるには花の付け根にある「総苞片(そうほうへん)」という緑色の部分をチェックすること……。

けれども、そうした知識は「たんぽぽ」に関する知識ではあっても、「たんぽぽ」そのものではありません。知識や概念ではなく、「たんぽぽ」そのものに向き合い、「たんぽぽ」に対する自分の気持ちを書こうとすると、意外とことばが出てこないのです。ほんとうは、「たんぽぽ」に対する気持ちや感情は、ことばではないのでしょう。

人が本来ことばではない自分の気持ちや感情をことばに表そうとするとき、詩のような、短いことばになって現れるのかもしれません。『古今和歌集』の仮名序で、紀貫之は和歌を「人の心を種として」生じると書きました。

「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける……」

ここで興味深いのは、紀貫之が「生きとし生けるものでいずれが歌を詠まないことがあろうか、いや、みな詠むのである」と反語で問いかけていることです。生命あるものは皆、歌を詠む。わたしには、「やまとうた(和歌)」ばかりでなく、俳句でも自由詩でも、同じように「人の心を種として」詠まれるに違いないと思えます。詩の世界とは、生きとし生けるものたちの心の声なのだ——そう思うと、なんだかひとつ腑に落ちたような気持ちになりました。

今日は春らしい温かな一日でした。いろいろな作業の合間に、足元に咲くたんぽぽを見ると「いいな、いいな。春らしいな」という気分になります。穏やかな、やさしい気分になるのです。最後にわたしの一句、

たんぽぽのぽつりぽつりと野に路に」 Hata3

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