昨日(2026年3月16日)、甲府地方気象台は、さくら(ソメイヨシノ)の開花宣言を発表しました。2月の平均気温が平年より約6℃も高かったことで、観測開始以来、最も早い記録となったようです。
わが家は標高540メートルの山地にあるので、甲府盆地の下にある町のことを、わたしたち夫婦は「下界」とか「下の町」などと呼んでいます。先日、買い物に出かけるため、愛車で下界の町まで降りたときのことです。
わが家の周囲の果樹園は、足元に背の低い草花こそ生えてきたものの、すもも(李)や桃などの花はまだ見られず、大部分が冬の名残を背負った枯れ草に覆われています。しかし、坂道を下るにつれ、窓から入り込む風の感触が、硬く冷たいものから、湿り気を帯びた柔らかなものへと変わっていくのがわかります。

標高差にして、約145メートル。
わずか15分ほどのドライブで、わたしは季節を数週間分ほど先回りすることになります。盆地の下の方の国道に辿り着くと、道路脇にはすでに薄紅色の桜が咲き誇っていました。そのあまりに雄弁な春の気配に、わたしは一瞬、不意打ちを食らったような心地になりました。移住した翌年に植えた、わが家のソメイヨシノの記念樹は、まだ蕾も小さなままなのに……。
気象予報士が口にする「600℃の法則」ということばを思い出します。2月1日から毎日の最高気温の合計が600℃に達したとき、桜は開花するというのです。物理的な熱量の蓄積が、植物の生命スイッチを入れる。計算してみれば、100メートルの標高差でおよそ0.6℃の差が生じます。盆地とわが家では一日の「熱の積み上げ」にわずかな差が生じ、そのちりのような一日の遅れが重なって、わが家の周囲へ桜が登ってくるまでに数日のタイムラグが生まれるのです。
盆地の桜は、わが家のソメイヨシノより先に「600℃のノルマ」を達成し、一足先に華やぎ、そして一足先に散っていく。標高差があるのだから、当たり前といえば、当たり前のこと。しかし、その時間差にふとわたしたちの人生を重ねてしまいます。
人にもまた、それぞれの「標高」があるといえるのではないでしょうか。生まれ持った才能、育った環境、今置かれている状況。それらは一人ひとり異なり、一日に受け取る「熱量」も違います。早くに才能を開花させ、若くして幸福の頂に達する人もいれば、標高の高い厳しい場所で、じっと耐えながらゆっくりと熱を蓄えている人もいる。
貧しい家庭に生まれ育ったわたしは、若い頃、他人と自分の境遇を比較し、劣等感に苛まれることが多くありました。わたしたちはとかく、先に咲いた誰かと自分を比べ、届かない春に焦りを感じがちなものです。しかし60歳を超えた今、この標高540メートルの地で暮らしていると、それはずいぶん遠い場所にある景色のように思えてくるのです。
かつて読んだ中国気功の本に、人間が一生の間にできる呼吸の回数には限りがあるという話がありました。セカセカと短く急な呼吸をしていれば、それだけ命の灯火を早く消費してしまう。ゆったりと深く大きく吸い込み、静かに長い息を吐く。それは、与えられた命の時間を慈しみ、大切に使い切る健康長寿のための知恵なのでしょう。
桜の開花が気温の「足し算」の蓄積で測られるのなら、人間の命は呼吸の「引き算」の刻みで数えられる。だが、その本質は同じことのように思えます。何かが満たされたときに花は開き、何かが尽きたときに生は閉じる。そこに早い遅いの違いはあっても、優劣など存在しません。
日本人がこれほどまでに桜の花を愛でるのは、満開の美しさの中に、すでに散りゆく姿を見ているからではないでしょうか。「咲く花」は、その瞬間から「散る花」でもある。早く咲いた桜も、これから咲くわが家の桜も、等しく風に舞う運命を背負っているのです。
坂を登り、家に戻る。エンジンを止めると、再び冷たい、けれども清冽な山の空気に包まれます。盆地の桜は、わたしに「もうすぐ行くよ」と告げているようでした。焦る必要はありません。わたしにはわたしの場所があり、わたしの呼吸がある。この冷たい風を楽しみながら、わが家が600℃の熱量に満たされるその日まで、静かに、ゆったりと息を整えて待っていようと思います。
良寛さんの句が、静かな夕暮れの空気に溶けていく。
「散桜 残る桜も 散る桜」(ちるさくら のこるさくらも ちるさくら)
ここで良寛さんに倣って、わたしの駄句をひとつ。
「散桜 残る桜に 待つ桜」(ちるさくら のこるさくらに まつさくら)
春は順番にやってきて、そして順番に去ってゆく。咲いて散る時も、残る花も、待ちわびる時も、すべての存在は、その同じ巡り合わせの中に身を置いているというだけで、人生は十分に満ち足りているのではないでしょうか。