わが家の周りでは桃の花がその役割を終え、かわって瑞々しい新緑が山を駆け上がってきました。今朝の坐禅は、ただ静寂と、雨上がりの土が発する微かな湿り気を肺腑へと送り込む、穏やかな時間となりました。
しかし、この里山の静謐さとは裏腹に、テレビ画面に映し出されるニュース映像――すなわち「世界」と呼ばれる空間は、2026年の今日、耐え難いほどの暴力の轟音に包まれています。2022年に始まったウクライナの戦火は未だ衰えず、2025年からは中東において「ユダの盾作戦」や「エピック・フューリー」といった、神話的な威圧を孕んだコードネームの下に、剥き出しの暴力と破壊が繰り返されています。さらに2026年1月、ベネズエラでの現職大統領拘束といった事態は、かつての国際的な法秩序が完全に機能を停止し、ただ「力の行使」だけが正当性の根拠とされる時代への退行を予感させます。それはまるで、法と暴力が未分化であった太古の混沌へ戻っていくかのようです。
こうした国際情勢を毎日のようにテレビニュースで見せられ、アメリカ・トランプ大統領の品のない罵り言葉にも嫌気がさしている――そうした気分のなかで、もう一度読み直してみたいと思い、ヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』(1921年)を手に取りました。1世紀以上前に書かれたこの難解なテクストは、法の仮面を剥ぎ取り、わたしたちが直面している事態の「核」を冷徹に指し示していると感じたからです。
いつ頃読んだのか正確には覚えていないのですが、30年ほど前になると思います。わたしの文庫本は、1994年4月20日第2刷発行と奥付にあります。カバーの裏表紙には定価570円(本体553円)とあるので、まだ消費税が3%の時代に買った本なのでした。
ヴァルター・ベンヤミン(1892年7月15日~1940年9月26日)は、ドイツの文芸批評家・哲学者・思想家・翻訳家・社会批評家……要するに、マルクス主義を援用しながらも独自の思想を貫いた知識人です。わたしは彼の『複製技術時代の芸術』を先に読んでいたはずで、そのせいで書店の文庫棚にこの『暴力批判論』の題名を見つけたとき、迷わず手に取ったのに違いありません。
自然法と実定法
「暴力批判論の課題は、暴力と、法および正義との関係をえがくことだ」1という言葉で始まる本論で、ベンヤミンはまず、法哲学における「自然法(Natural Law)」と「実定法(Positive Law)」という対立概念を検討します。法律はどこから権威を得ているのか、そして「正しさ」とは何か――その問いを考える上でもっとも基礎となる概念です。
「自然法」とは、時代や場所・民族の違いを超えて、人間が理性によって把握できる普遍的・不変的な法を指します。その根拠は、神の意思、人間の本性(自然)、あるいは理性に基づくとされています。人間が作ったものではなく、あらかじめ「発見」されるもの――「悪いことはしてはいけない」「約束は守るべき」等々といった道義的な正義と結びついています。実定法が自然法に反する場合、その実定法は「悪法」であり、従う義務がないとされることがあります。
他方の「実定法」とは、特定の時代・社会において、権限を持つ機関(議会など)によって一定の手続きを経て制定された法を指します。その根拠は国家の意思や人々の合意に基づき、条文として書き留められた「制定法」や、慣習として認められた「慣習法」があります。時代の変化や社会の要請に応じて変更・廃止も可能です。「法実証主義(Legal Positivism)」の立場では、たとえその内容が道徳的に疑問であっても、正当な手続きで作られた以上は法として認められます。
この二つの対立がもっとも激しく議論されたのは、第二次世界大戦後のナチス・ドイツの裁き(ニュルンベルク裁判)においてでした。「実定法」の立場からは「当時のナチスの法律に従っただけなので、罪には問われないはずだ」と主張され、「自然法」の立場からは「たとえ法律であっても、人道に反するほど著しく正義に欠けるものは法ではない」と反論されました。この論争を経て、「実定法」を絶対視せず、人間の尊厳や基本的な正義という「自然法的」な視点が、現代の憲法や国際法における「基本的人権」の考え方の柱となっています。
暴力(軍事力や強制力)を認める基準も、両者で異なります。「自然法」では、その暴力が「正しい目的」に適っているかどうかで判断し、自己保存(正当防衛)や圧政への抵抗のための暴力は正当なものとして認められやすい傾向があります。「実定法」では、その暴力が「法文の要件」を満たしているかどうかで判断され、現代では暴力は国家に独占されており、法律で定められた手続きを通したものだけが「適法な暴力」とされます。
法哲学は、こうした暴力に対し、宗教や国籍を超えた「普遍的な理性(自然法)」に照らしてその正当性を問い直す役割を担っています。しかし現代の国際情勢においては、大国が「独自の正義(歪められた自然法)」を掲げて既存の国際法(実定法)を無視し、武力を行使する事態が常態化しています。
ヴァルター・ベンヤミンは、自然法と実定法(法実証主義)という二つの立場は、まさに「暴力」を法的な枠組みの中に閉じ込め、相互に補完し合うことで暴力の連鎖を永続させているものだと喝破しました。『暴力批判論』において、ベンヤミンはこれら両者が共通の「基本的ドグマ」に支配されていることを鋭く批判しています。
1.共通の基本的ドグマ:手段と目的の円環
ベンヤミンによれば、自然法と実定法は対立しているように見えて、実は同じ根源的な思い込みを共有しています。それは「正しい目的は正当な手段によって達成されうるし、正当な手段は正しい目的のために用いられうる」というドグマです。自然法は「目的」の正しさが暴力という「手段」を正当化すると考え、実定法は「手段(手続き)」の正当性が結果としての「目的(暴力行使)」を保証すると考えます。ベンヤミンはこの構造を、暴力の問題を「手段か目的か」という計算可能な枠組みの中に押し込めているだけだと批判しました。この円環の中に留まる限り、暴力それ自体の是非を問うことは不可能になります。
2.自然法による暴力の「自然化」
自然法の立場は、暴力をあたかも「自然界に存在する原材料」のように扱います。人間が目的地へ向かって「自分の身体を動かす権利」を持つのと同じように、正しい目的のためであれば暴力という手段を用いることは「自明のこと」とみなされます。この考え方は、暴力を倫理的な検討の対象から外し、単なる「物理的な所与」として受け入れることで、結果として暴力を補完してしまいます。
3.実定法による暴力の「制度化」
実定法(法実証主義)は、暴力の「出所」を問い、それが歴史的に認められた正当な手続きに基づいているかどうかを重視します。暴力は国家によって独占され、法的に認可された「強制力」としてのみ現れます。ベンヤミンは、実定法が「手段の合法性」にのみ固執することで既存の権力構造を盲目的に維持する機能を果たしており、結果として国家暴力を温存させていると指摘しました。
暴力の二重性と神話的暴力
ベンヤミンは、近代国家における法体系において、暴力は二つの形態で現れると指摘します。
一つは、新たな法を打ち立てる際の「法措定的暴力」です。革命や戦争の勝利によって、これまでの秩序を覆し、新たな権利関係を宣言する力です。もう一つは、一度成立した法を維持しようとする「法維持的暴力」です。警察力や軍隊、あるいは刑罰による威嚇がこれに該当し、法が法として機能し続けるための強制力を指します。
ベンヤミンは、これら一連の法的な暴力を「神話的暴力(mythische Gewalt)」と呼びました。ギリシア神話のニオーベーの物語を例に引きながら、法が「罪」を裁くのではなく、ただ「運命」を課すものであることを暴きます。神話的暴力は、法を立てるために血を流し、その境界を守るために生を抑圧するのです。
現在の国際情勢を見れば、この神話的循環は極めて明白です。超大国による他国への介入は、新たな秩序(法)を打ち立てるための「法措定的暴力」であり、それに対する報復や封じ込めは自らの覇権を護るための「法維持的暴力」です。そこにあるのは正義ではなく、ただ「暴力の自己目的化」という円環的な閉塞感に他なりません。2026年現在のイラン攻撃のような事態において、指導者が「国際法(実定法)」を無視して自らの「道徳心(歪められた自然法)」を掲げて武力を行使することは、法措定と法維持が混淆した法の「腐朽(Verfall)」を露呈させていると言わざるをえません。
「神的暴力」とプロレタリア的総罷業
ベンヤミンにとって、自然法と実定法の二項対立を乗り越えることは、暴力が「手段」として正当化される思考そのものを停止させることを意味します。そして、この絶望的な円環を断ち切るものとして提示されるのが「神的暴力(göttliche Gewalt)」です。
神的暴力は、神話的暴力とは対極の性質を持ちます。神話的暴力が血を流して法を立てるのに対し、神的暴力は「血を流さず、法を解除する」。それは特定の「法」を別の「法」に置き換えるための暴力ではなく、「法というシステムそのもの」を停止させる力です。
ここでベンヤミンが神的暴力の具体例として挙げるのが、フランスの社会主義理論家ジョルジュ・ソレルが説いた「プロレタリア的総罷業(ゼネスト)」です。通常のストライキ(政治的罷業)は、賃上げや労働条件の改善という「目的」のために行われる手段であり、法制度の内側での交渉に過ぎません。しかし「総罷業」は異なります。それは、労働という再生産システムそのものから集団的に離脱し、法が強いる「手段と目的」の関係性を根底から拒絶する行為です。
この神的暴力は、人間の計算や意志、正当化の論理から完全に独立して存在します。いつどこで現れるかを人間が予見したり道具的に利用したりすることは不可能なもの――つまり、ゼネストを「計画」して実行すること自体が、ある意味で法の論理(目的のための手段)に近づいてしまう危険を孕んでいます。ベンヤミンにとって「神的暴力」は、人間が道具として使いこなせる「手段」や、あらかじめ計画できる「戦略」ではありません。それは法の支配が及ぶ領域のギリギリ外側に位置する「限界概念」なのです。
ベンヤミンが「ゼネスト」を高く評価したのは、それが何かを破壊したり新しい法律を作らせたりするためではなく、「何もしないこと(不作為)」によって国家という装置の稼働を停止させるからです。
ベンヤミンにとっての「神的」とは、超越的な神が奇跡を起こすことではありません。人間が法という名の運命から自らを解き放つ、その瞬間的な切断――「血を流さないが致命的(法の支配を終わらせる)」という特質こそが、神的暴力に求めた決定的な要素なのでした。
ただし付言すれば、ジョルジュ・ソレルの思想は本来、労働者の自律と倫理的向上を目指すものでしたが、その「理性を蔑ろにし、闘争という行為そのものに絶対的な道徳的価値を置く」という論理構造が、結果としてファシズムの根源的なダイナミズムを理論的に準備することになったのは、歴史の皮肉と言うほかありません。
「厭離」あるいは「出家」という名の解除
わが家の畑で自然農による野菜作りに励むとき、わたしはこのベンヤミンの「解除(Entsetzung)」という言葉を、「放下」という禅の用語に積極的に誤訳して、仏教の「厭離(えんり)」あるいは「出家」という概念に接続して考えたいと思います2。
源信の『往生要集』に見られる「厭離穢土」という言葉は、しばしば現世への絶望として語られます。しかし、その本質は「穢れた国土(=世俗の欲望と暴力の論理で構築された世界)」のシステムから、自らの生の形式を引き剥がす積極的な行為にあります。
また、「出家」とは、単に寺に入ることでも、世俗を離れて山にこもることでもありません。それはブッダが実践したように、王法(国家の法)や世俗の経済システムという人間的な「法」の呪縛を無効化する試みです。ベンヤミンのいう「総罷業(ゼネスト)」が経済的な再生産の拒絶であるならば、出家とは「存在論的な再生産」の拒絶――すなわち、暴力の連鎖を生み出し続ける社会構造への加担を止める(ストライキする)ことです。

わたしの里山での暮らしは、「出家」や「厭離」の厳格さはありませんが、わたしにとっての「静かなる総罷業(ゼネスト)」の試みです。現代の経済社会のシステムから全て身を引くことは不可能だとしても、少しでも依存を減らし、加担しない生き方を模索し、創造すること。
土を耕し、自給自足的な生活を営むことは、近代的な分業体制や消費社会という「法維持的暴力」からの離脱を意味します。朝の坐禅で呼吸を整える行為は、他者との競争や数字の増大に駆り立てる世俗の「目的」を一時的に停止させ、生を純粋な「手段なき目的(純粋な手段)」へと回帰させる準備運動なのです。
2026年、ベンヤミンへの応答としての隠遁
2026年の今、わたしたちは法がもはや正義を担保せず、ただ暴力を正当化ないし黙認する手段となっている惨状を目の当たりにしています。法を修復しようとする試み(法維持)も、新たな覇権によって世界を統治しようとする試み(法措定)も、結局は神話的暴力の円環を再生産するに過ぎません。トランプ大統領やネタニヤフ首相のような指導者が国際法を「無視すべきルール」として扱い、自らの主観的な道徳や神学を法の上に置いていますが、これは法が本来の機能を失った「腐朽」の状態にほかなりません。
今、真に求められているのは、この狂気的なゲームそのものを「解除」することではないでしょうか。それは、銃を取って戦うことではありえません。むしろ、国家が強いる「国民」としての役割、市場が強いる「消費者」としての義務、そして暴力が強いる「憎悪」という感情から、静かに、しかし断固として手を引くこと。ベンヤミンの説く「神的暴力」のイメージを、個人的な生活の次元において「出家」や「厭離」等々として実践することです。
法そのものを無効化し、一個の存在として、天と地の間、そして沈黙の中に身を置く。それは、いつか達成されるべき事柄なのではなく、今ここですぐにでも可能な決断なのです。
この「厭離」という選択は、決して消極的な逃避ではありません。暴力に頼らなければ存続できない国家や法の虚構を、「ただ自律的に生きること」によって証明し、無効化し続けるという、極めて能動的な「法の解除」の実践です。「不作為の抵抗」「何もしないをする」ことこそが、血を流し続ける世界に対する、最も致命的で、かつ慈悲深い批判になり得る――わたしはそう信じています。
盆地の向こうで明滅する都市の灯りを見つめながら、わたしは明日もまた、法ならぬ大地の理に従って、種を蒔き、草を刈るつもりです。それがどれほど無意味で微力に見えたとしても、この生活の形式こそが、わたしからのベンヤミン「暴力批判論」への応答なのです。
脚注
- ヴァルター・ベンヤミン(野村修 編訳)『暴力批判論 他十篇——ベンヤミンの仕事1』岩波文庫(1994), p.29. ↩︎
- ここで「解除」と訳した”Entsetzung”という語は、原文では以下のように使われています。
Auf der Durchbrechung dieses Umlaufs im Banne der mythischen Rechtsformen, auf der Entsetzung des Rechts samt den Gewalten, auf die es angewiesen ist wie sie auf jenes, zuletzt also der Staatsgewalt, begründet sich ein neues geschichtliches Zeitalter.
岩波文庫版(野村修 訳)では、この語を「廃止」と訳しています。
〈岩波文庫版訳〉 「神話的な法形態にしばられたこの循環を打破するときにこそ、いいかえれば、互いに依拠しあっている法と暴力を、つまり究極的には国家暴力を廃止するときにこそ、新しい歴史的時代が創出されるのだ。」(p.64)
しかし、この語には単なる「廃止」以上のニュアンスがあります。
〈わたしの試訳〉 「新たな歴史的時代は、神話的な法的形式の呪縛によるこの悪循環を断ち切り、法が依存する法と暴力、ひいては国家の暴力的強制力を解除することによって築かれる。」
ドイツ語の名詞 Entsetzung(エントゼッツング)は、「解任・免職」や「軍事的な救出(包囲解除)」を主な意味とする女性名詞で、英語の removal, dismissal, relief に相当します。「地位からの引き剥がし」「危機的状況からの解放」といった含意を持ち、①役職や職務から強制的に外すこと、②包囲された部隊や都市を救出・解放する軍事用語、③所有権や利用権を剥奪するという法律的用法、などがあります。
ベンヤミンが「廃止」を意味する Abschaffung ではなく Entsetzung を選んだのは、単に制度を取り除くだけでなく、「解き放つ」――物理的な自由にとどまらず、束縛されているものや閉じ込められているものを根こそぎ自由にする――というニュアンスを込めたかったからではないでしょうか。
一方、わたしが「放下」という語を当てたのには、次のような理由があります。「放下」は中国唐代の禅僧・趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)が用いた言葉で、「すべての執着――知識も、プライドも、悟りへのこだわりさえも――を捨て去ること」を意味します。本来は「放り投げる」という動詞であり、その含意は単なる「捨てる」ではなく、むしろ「解き放つ」です。
この「解き放つ」というイメージを接着剤として、わたしはベンヤミンの「神的暴力」という概念を、仏教的な「厭離」あるいは「出家」として引き受けたいのです。 ↩︎