気がつけば、前回の記事からずいぶん時間が経っていました。
上の畑では、昨年もとうもろこしやナス、トマト、かぼちゃなどが育ち、実をつけ、枯れ、今また別の苗が根を張っています。季節は律儀に巡るのに、私の文章だけが土の中でじっとしていました。
書けなかったというより、少し構えすぎていたのだと思います。どうせ書くなら、ある程度の長さで、きちんと整えて、読んでくださる方に何かを持ち帰っていただけるように――そんな欲が、知らぬ間に鍬よりも重くなっていました。カッコつけ過ぎていたのかもしれません。
けれど自然も畑も、そんなことを一度も要求しません。
種は小さく蒔かれ、小さく芽を出します。芽が出たばかりの姿を見て、「まだ短いからやり直しだ」などとは誰も言いません。短いものは短いまま、そこに在るだけです。
禅に「絶学無為閑道人」(ぜつがくむいのかんどうじん)という言葉があります。永嘉玄覚禅師(675~713)の『証道歌』の冒頭に出てきます。
学び尽くした人というより、あくせくと求めることをやめた人、という響きが私は好きです。もっとも、私は何かを極めたわけでも悟ったわけでもありません。ただ、ブログを少し休んでいただけの話です。それでも、筆を置いてみると、妙に肩が軽くなるのを感じました。
上の畑に立つと、心地よい風が通り抜けていきます。
昨年もトマトは勝手に赤くなり、インゲンは黙って蔓を伸ばし、ナスやピーマンはたくさんの実をつけてくれました。土は何も語らず、しかし確かに応えています。私がブログ記事を書こうが書くまいが、自然も畑も一向に困らない。そう思うと、私なんぞの文章もまた、少し放っておいてもよいものなのだと気づきました。
今は、誰もが常に何かを発信していないと落ち着かない時代なのかもしれません。私も若い頃なら、ブログ更新が滞ることやネットから遠ざかることに多少の焦りを感じたことでしょう。けれど今は、「閑を得た」と言っても大目に見てもらえる年齢になりました。止まることも歩くことの一部。沈黙もまた、ひとつの行です。
それでも、こうしてまたキーボードに向かっています。特別な思想や宣言があるわけではありません。立派な再出発でもありません。ただ、今日は書いてみようと思った。それだけのこと。
長い文章を書こうとはしません。芽は芽の大きさで、文章は文章の長さでよい。ここ塩山の空の下、畑の風に吹かれながら、甲府盆地を遠くに眺め、閑人らしく、一言ずつ。
まずは、ここから。